前項で述べた通り、選択とは取捨の義であり、二者の対立の中からその一を捨て、他の一を択ぶことである。いいかえれば二元的な対立が厳しく行われることを意味する。鎌倉時代に輩出した新仏教の祖師たちは、この方法を用いて教相を判釈し、立宗の立場としようとした。つまり法然上人の一向専修の立場、あるいは「ただ一向に念仏すべし」という結論は、禅でいえば「只管打坐」にあたり、道元は『正法眼蔵』を著して青源の流れを嫡々相伝するという正統性を主張した。法然上人の流れを汲む親鸞は、真仮の分判を行い『顕浄土真実教行証文類』を著し、浄土真宗なりと主張した。「念仏無間」と厳しく批判した日蓮は、法華一乗をもって他宗を折伏した彼の思想は『立正安国論』にもられ、専修唱題を顕揚しようとしたのである。
選択の理論が厳しく行われたのは教界だけでなく、政界においても同様に、二元的な対立が行われていた。京都には平安京成立以来の天皇を中心とする公家政権が存立し、鎌倉には新興の武家政権が誕生し、公武は厳しく対立した。それが極点に達するのが承久の変である。この変の結果、武家の勢力は著しく伸長し、公家勢力は衰退に向かうことになる。新旧の政治的権威が対立抗争し、新政治勢力が台頭したことを意味する。こうした鎌倉期の政治や文化思想は二元的な対立の中でその一を捨て、他の一を選取することにあったと考えられ、特に公武の対立は鎌倉末期に南北両朝を出現させた。北畠親房は、『神皇正統記』を著して南北正閏を論じ、南朝こそ万世一系の皇統であり、正統であると讃えたのである。(傍点筆者)
選択の理論の発見と提唱は、新たなる人間的自覚、あるいは自我の発見に連なる思想である。富貴に対する貧賎の者、智慧高才に対して愚鈍下智、多聞多見に対して少聞少見、持戒持律に対して破戒無戒という。富貴、智慧高才、多聞多見、持戒持律の者は少なく、その多くは社会の上層部にある人々である。これに対して貧賎、愚鈍下智、少聞少見、破戒無戒の者は社会の基層部に多く属している。後者は常に無視看過され続けた。しかし、新しい時代は彼らによって切り開かれた。武士の自覚であり、侍う者から政治荷担者へと発展して行く。庶民もまたしかりである。
鎌倉仏教の祖師たちは、強烈な個性をもち、我執が強い。それがゆえに新たなる仏教の開宗を見たのである。法然上人は智慧第一とうたわれたが、自身は三学非器と述べ、「愚痴の法然房」と称した。親鸞も「愚禿親鸞」と称し、日蓮も自ら「旃陀羅の子」と称したように、彼らはいつしか強烈な個性やあるいは自我や我執を自ら否定し、自らの内面を内省・省察することによって、新たなる人間観、つまり凡夫像を創りあげていった。その凡夫像は社会の基層部に呻吟する破戒無戒の愚痴無知の輩であり、悪人と称される者こそ阿弥陀仏の正客に据えられるべきで、救済の最大の対象にならねばならないのである。これが選択の理論より導き出された法然上人の宗教なのである。
(平成7年度 浄土宗布教・教化指針より)