1、説法逡巡
釈尊はやっと覚られ成道されたのに、なぜか説法をせずに黙っておられた、とお経は述べる。いぶかしいことで、せっかく覚られた仏教を、なぜ釈尊は世間に伝えられないのであろうか。インド最高の神、梵天が説法をしてくださいと幾度か請願するのである。なぜだろうか。釈尊は、私の教えは難解で、煩悩の多いものは仏法に入り難いであろう、世間に逆らうようで、人々が迷うかもしれない、と悩まれる。どうしてであろうか、それ以上お経は説明しない。
本当に不思議なことである。このためらいの理由は二つあったと考えられる。第一には、無我を説くことである。当時はもちろん、現在まで、インドの「世間の考え」、すなわち、インド伝統の我−アートマンの教えに対して、釈尊の仏教は、無我を説くものと言われている。我は、アートマン、魂を表す言葉である。釈尊はそれが無い、と説かれているから、釈尊は魂を認めない、死者の霊を考えない、無神論というように誤解されるおそれがあると考えられたのであろう。
このような詳しい釈尊の悩みは、どこにも説明はされていないが、無我については、初転法輪の説法でも、一番後に説かれているようすからも、釈尊が気にされていることがわかる。
第二には、世の人が耳を傾け分かってくれるだろうか、ということだろう。これは、『初転法輪経』に説かれている。釈尊の悩みに対して、梵天は次のように願っている。覚られた釈尊はマガダ国で生まれられたが、そこに住む人は、汚れた、つまり、煩悩ある人々で、しかも、釈尊はその煩悩多き人間の中からお生まれになったのである、釈尊と世間とはかけ離れてはいない、あなたと同じ人間である、どうかその衆生のために説法をしてください、と三回も繰り返した。
そこで、釈尊は仏眼で世間を観察され、煩悩の多いもの、少ないものがあり、また、優れた利根のもの、愚かな鈍根のものがあることを眺めた。これは浄土門の鈍根・利根の機根論にあたるものであろう。さらに、死後にいろいろな報いで地獄に堕ちたり輪廻のような苦しみを受けることを恐れて、生前にこの原因となる不善をなくし、善根を積もうとする世間の人々を眺められた。これは聖道門に対する浄土門に当たる。
しかれば善人をすすめたまえる所をば善人の分と見、悪人をすすめ給える所をば我が
分に見て得分にするなり。かくの如くみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本
願に乗じて順次の往生をとぐるなり。(つねに仰せられける御詞)
釈尊は所在の蓮池をご覧になったであろう。蓮池にはさまざまの蓮が、さまざまに咲き乱れていた。池底の泥から出たもののまだ水上に出ないもの、さらに伸びたけれど水面にあるもの、さらに水上に伸びて泥水が付いていないものもあった。そこで釈尊は、世間の衆生もまさにこのようであって、人さまざまに説法をすることによって、仏法が受け入れられるのであると考え、説法を決意された、という。
よく焼香箱とか、仏具にこのような蓮が描かれてあるが、特に深い意味も無く、なにげなく極楽浄土の蓮というあしらいかもしれないが、このような考え方で見、説くのも意義あることであろう。このさまざまな蓮のような人間に対しては、それぞれに応じた説法や、方便が必要になるのである。『妙法蓮華経』というお経は、この間の事情を受けて編集されたお経で、特定の宗派のものではない。あまり注目されないが、この釈尊の世の受け入れにくい微妙の法と、さまざまの蓮華−即ち、人間に関するお経という意味と、私は考える。その法と蓮の間には応病与薬の説法がある。『妙法蓮華経』は「妙法と蓮華衆生のお経」と考えてもいい。
さて、このように、釈尊は説法の相手にはいろいろの人がいて、汚れ少なきもの、多きもの、つまり、煩悩多きものと少なきもの、利根と鈍根、度し易いものと度し難いものとがあると注目したのである。この『初転法輪経』自体は発生が古くとも、漢訳となると少し時代を経ていて、元より増広されてはいるであろうけれど、仏教は、以上のような聖者と凡夫という二つのタイプを取ってきたことは間違いない。この二つのタイプが釈尊当初からあったのに、なぜか、いわゆる仏教概説には、それが説かれることが少なくて、利根、聖者、比丘という者の教えこそ仏教であるような考えが、仏教学や仏教界の主流になってきていた。
しかし、左記に述べたように蓮が上位・中位・下位といろいろあるように、仏教は人間それぞれに応じて説かれていく。たとえ、泥中にあって、つまり、俗な人間であっても相応の仏教が受けとめられて力となることを、この話は伝えてくれる。
在家の人、阿育主が、この法を強調したのも、あるいは王も「マガダの人−煩悩の中の人として釈尊もふつうの人間と考えられていること」を、うれしく思い、同感しつつ人間対応の『初転法輪経』を七つの経の中の第一に挙げたのではないか、と思う。
この説法へのためらいが、煩悩多き人が多く、人さまざまの仏教の受け止め方がある、という点を強調しており、これは法然上人の寛容なご指導で、人それぞれに念仏を申すことによって往生できる、という姿勢を通じると思う。
念仏の機はただむまれつきのままにて念仏をば申なり。智者は智者にて申てむまれ、
愚者は愚者にて申てむまれ、道心ある人も申てむまれ、道心なき人も申てむまる。乃至
富貴のものも貧賤のものも、慈悲あるものも慈悲なきものも、欲ふかきものも、腹あし
きものも、本願の不思議にて、念仏だに申さば、いずれもみな往生するなり。念仏の本
願に万機をおさめておこしたまえる本願なり。(禅勝房に示される御言葉、『法然上人行
状絵図』第四十五巻)
(平成7年度 浄土宗布教・教化指針より)