第一章

選択と法然上人

 法然上人がわざわざ浄土宗をお開きくださったのは、我々凡夫衆生が阿弥陀仏の浄土に往き生まれる(凡入報土)道理を示されんがためであった。その教えが「選択」の義であり、そのことは『選択本願念仏集』に詳しく述べられている。この書『選択集』は、帰依者九条関白藤原兼実公(一一四七〜一二〇七)の要請により、建久九年に成った。平成十年は、ご述作後満八百年の嘉年に当たる。

 我々宗門人は、この法然上人の開顕された選択本願の念仏を体し、なお一層自信教人信すべきであることはいうまでもない。道俗ともに念仏相続の心行業(安心・起行・作業)を堅固ならしめ、選択の御旗を掲げて進みゆくことこそ、法然上人への真の報恩行というものであろう。

 周知のように法然上人は、もっぱら善導大師(六一三〜六八一)の教えに依って凡入報土の義を開顕し、浄土宗を開かれた。その中心が選択本願の念仏である。我々の信じ行じる念仏は、阿弥陀仏が我々のために選択して本願とされた念仏である。それはまた阿弥陀仏が選択して摂取され、選択して化讃(阿弥陀仏の化仏の讃歎)され、選択して我名とされた念仏である。のみならず釈迦仏もまた選択して讃歎され、選択して留教され、選択して付属された念仏である。なおまた一切の諸仏が選択して証誠された念仏(以上八選択)である。弥陀・釈迦・諸仏、すべての仏が心を同じくして選択された往生の行が念仏である。仏教多しといえども、すべての仏が異口同音に、我々に示された教え、往生行は念仏以外にはない。

 ところで識者は言う。法然上人は自ら「諸師、文を作るに必らず本意ひとつあり。恵心(源信僧都)は因明(本意ではない諸行、因みに明かされた行)・直弁(本意の念仏)の義を立て、善導は本願念仏の一義を釈し、予(法然上人)は選択の一義を立てて選択集を作れり」(良忠上人『浄土宗要集聴書』所収の法然上人御詞)と仰せになっているから、善導大師所立の本願の念仏を超えて、法然上人の選択本願の念仏がある、と。

 しかし我々は、その立場は取らない。善導大師と法然上人の二祖対面を事実と信じ、夢定中の師資相承を重んじるからである。鎮西上人が「上人(法然上人)自から三部経を料簡して、我が朝に始めてこの義(選択)を立てたまう。唐土の人師の所立の中にも、この選択の義まったくもってなし。云々。この書の起りはこの事(選択)にあり。学者心を留めよ」(『徹選択本願念仏集』上巻)と言われることも、両祖を分けるお言葉とは見ないからである。良忠上人の「私にいわく、大師(善導)の本願、祖師(法然)の選択、辞は異に、義は同じ」の釈に従うからである。何にもまして『選択集』末尾に法然上人ご自身が、

  静かにおもんみれば、善導の『観経疎』は、これ西方の指南、行者の目足なり。しか

ればすなわち西方の行人、必らずすべからく珍敬すべし(略)。ここにおいて貧道(沙門

の意、謙遜の語)昔この典を披閲してほぼ粗意を識り、立ちどころに余行をすてて、こ

こに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏をこととす。し

かる間、まれに津(渡し場)を問う者には、示すに西方の通津(誰でも通れる渡し場)

をもってし、たまたま行をたずぬるものには、誨うるに念仏の別行をもってす。これを

信ずるものは多く、信ぜざるものは少なし

と言われることを仰ぐからである。

 善導大師を弥陀の化身と尊ばれ、「偏依善導一師」を掲げて浄土宗をお立てになった法然上人である。南無阿弥陀仏に両祖の差異があるはずはない。善導大師が明らかにされた「本願の念仏」こそ法然上人が開顕された「選択本願の念仏」である。導空(善導大師と法然上人)二祖一轍の念仏義は、曲げることのできない浄土宗義である。

 法然上人の選択の義は、八選択によってわかるように、念仏が弥陀・釈迦・諸仏の選択された往生行であることを明かされたものである。選択の義では、また三重の選択によって選択本願の念仏義が説かれることになる。三段階の第一重は「且らく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入る」という選択。第二重は「且らく諸もろの雑行を抛って、選んで正行に帰す」という選択。第三重は「猶お助業を傍らにして、選んで正定を専らにする」という選択である。法然上人は、この三重の選択によって、念仏は阿弥陀仏の本願の行であるから、一切の凡夫衆生にとっては、往生浄土の正定業(まさしく往生が決定する行)となることを明らかにされたのである。

 念仏は弥陀・釈迦・諸仏の選択された往生行であるが、その根本は弥陀が選択された本願の行というところにある。釈迦・諸仏の選択も、弥陀の選択本願の念仏の上にある。

 一切の凡夫衆生のために選択された浄土、我々が往生しようと願う西方安楽世界極楽国、これを所求という。一切衆生のために選択して帰依すべきことを示された阿弥陀仏ご自身、これを所帰という。一切衆生のために選択して行ずべきことを示された念仏、これを去行という。いわゆる選択本願は、くわしくは選択本願の念仏をいう。他でもない、阿弥陀仏が選択して凡夫往生の行とされた去行の念仏の意である。

 選択の義については、法然上人は次のように言われる。

  この中(二百一十億の諸仏の浄土における)選択とは、すなわちこれ取捨の義なり。

 いわく二百一十億の諸仏の浄土の中において、人天の悪を捨てて、人天の善を取り、国

 土の醜を捨てて、国土の好を取るなり。

と。

 ところが問題がある。法然上人はその事を自問され、次のように言われる。

  問うていわく、あまねく諸願に約するに■(粗)悪を選捨し、善妙を選取すること、その理

 しかるべし。何がゆえぞ十八願に一切の諸行を選捨し、ただ偏えに念仏の一行を選取し

 て、往生の本願とするや。

と。

 善悪や好醜にもとづいて選択することが、念仏と諸行の間の選択に通じるであろうか、ということである。阿弥陀仏がなぜに諸行を選び捨てて、念仏を選び取って本願とされたかということは、善悪好醜の価値判断では割り切れないものがあるからである。これに対するお答えが有名な勝劣・難易の二義である。法然上人は、

  答えていわく、聖意(弥陀の真意)測りがたし。たやすく解することあたわず。しか

 りといえども、今、試みに二義をもってこれを解せば、一つには勝劣の義、二つには難

 易の義なり。初めに勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。ゆえはいかんとなれ

 ば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなわち弥陀一仏のあらゆる四智・

 三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の

 功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号の中にあり。ゆえに名号の功徳もっとも勝とす。

 余行はしからず。各おの一隅を守る。ここをもって劣とす。たとえば世間の屋舎のごと

 し。その屋舎の名字の中には棟・梁・椽・柱などの一切の家具を摂すれども、棟・梁な

 どの一一の名字の中には、一切を摂することあたわず。これをもってまさに知るべし。

 しかれば仏の名号の功徳は、余の一切の功徳に勝れたり。ゆえに劣を捨てて、勝を取っ

 て本願としたもうか。

と言われる。

 ここにいう名号とは「阿弥陀仏」という仏の名のことである。我々はこの阿弥陀仏に帰依するから南無阿弥陀仏と言い、通常はこれを六字の名号というが、今、法然上人が仰せになっているのは、阿弥陀仏の四字の中、特に仏の一字である。弥陀は一切の凡夫衆生を摂取することを約束して念仏を選択され、往生行として誓われた。その願を成就して阿弥陀という仏になられたのであるから、この仏は阿弥陀という名の仏である。この仏は本願成就身、くわしくは酬因感果未(因位の菩薩の時の本願を成就して、仏果を感得された仏身)すなわち報身の仏である。

 法然上人は「名号は万徳の帰するところなり」と仰せられた。万徳とは仏徳、すなわち菩薩行(自覚・覚他)を成就された阿弥陀仏のすべての功徳である。菩薩行とは六波羅蜜をはじめとする諸善万行をいう。この諸善万行すなわち諸行の一一を完全に行じてはじめて仏果が得られる。阿弥陀仏は本願成就のために諸善万行の菩薩行を成就された報身の仏である。阿弥陀仏という四字は本願成就者の名である。この名に諸善万行の功徳が包摂されている。いわゆる名と体が不離の関係にある。名号がそのまま阿弥陀仏、阿弥陀仏がそのまま名号である。ゆえに名号は仏と同じく拝まれる。

 名号はたとえて言うと家にあたる。家といえば棟も梁も椽も柱も納まる。またどの一つが欠けても家ではない。棟・梁などは部分である。家は全体である。部分の椽や柱に、全体の家を納れることはできないのである。

 阿弥陀仏という名号は仏徳という全体である。諸行の一一は、阿弥陀仏という名と体を成就するための部分でしかない。諸行の一一に、仏そのものの名や体を摂めることはできない。万徳所帰の名号を念じること、すなわち南無阿弥陀仏の念仏と、それ以外の諸行とでは、勝劣ははっきりしている。ゆえに勝れた名号、念仏を選択して本願とされた、と法然上人は答えられるのである。

 思ってみると、なるほどそうである。名号は果位の仏そのもの、諸行の一一は因位の菩薩の行である。名号を念じるということは、凡夫が果位(ゴール)の仏に直参・帰依すること。諸行を修するということは、自らが因位(スタート)にあって一一を実践してゆくということ。勝負は明らかである。「称うれば、ここに居ながら極楽の、聖衆のかずに入るぞうれしき」というように、お念仏の中に、凡夫が凡夫のままに果位の阿弥陀仏の世界、お浄土に心を通わせていただくことができるのである。

 念仏と諸行の勝劣については、他にもふれておられる。「往生教の中には、念仏三昧はこれ総持のごとく、また醍醐のごとし。もし念仏三昧の醍醐の薬にあらざれば、五逆深重の病、はなはだ治しがたしとす」とも「念仏はこれ勝行なり。ゆえに芬陀利(蓮華)を引いて、もってその喩えとす」とも仰せられているし、「雑善(諸行)はこれ少善根なり。念仏は多善根なり」とも「ただに多少の義あるのみにあらず。また大小の義あり。いわく、雑善はこれ小善根なり。念仏はこれ大善根なり。また勝劣の義あり。いわく、雑善はこれ劣善根なり。念仏はこれ勝善根なり」とも仰せになっている。(以上すべて『選択集』)その他、念仏は無上大利の功徳、余行は有上小利の功徳ともいわれている。もって念仏と諸行の勝劣を知るべきである。

 勝劣の義につぐ難易の義の理解は容易であろう。「念仏は易きがゆえに一切に通ず。諸行は難きがゆえに諸機(諸人凡夫)に通ぜず。しかれば一切衆生をして、平等に往生せしめんがために難(諸行)を捨て、易(念仏)を取って本願としたまうか」とのお言葉につけ加えることはあるまい。

 選択の義はみてきたように選取・選捨の意である。法然上人は「南無阿弥陀仏、往生の業には、念仏を先とす」と仰せられた。往生浄土のために、我々にお示しいただいた行が、南無阿弥陀仏という、阿弥陀仏が選択された本願の念仏である。ここにいう念仏為先の「先」は、単なる前後関係をいうのではない。往生の行の中においては最要という意である(良忠上人『選択伝弘決疑鈔』巻第一)。煩悩のおこるままに、学問のないままに、心が乱れるままにも、まず申す念仏である。その意味では行門為本ということになる(信心為本ではない)。それゆえ『選択集』第四「三輩念仏往生篇」には、諸行と念仏の関係を述べて「一向専念無量寿仏とはこれ正行なり。またこれ所助なり。捨家棄欲而作沙門、発菩提心等とはこれ助行なり。またこれ能助なり。いわく往生の業には念仏を本とす。ゆえに一向に念仏を修せんがために家を捨て、欲を捨てて沙門となり、また菩提心を発す等なり」と仰せられている。

 念仏と諸行の関係については、近ごろも諸説があるが、法然上人の本意は、諸行は永捨である。

  つらつら経の意(『観経』)を尋ぬれば、この諸行をもって付属し流通せず。ただ念仏

 の一行をもてすなわち後世に付属し流通せしむ。まさに知るべし。釈尊、諸行を付属し

 たまわざるゆえんは、すなわちこれ弥陀の本願にあらざるがゆえなり。また念仏を付属

 したまうゆえんは、すなわちこれ弥陀の本願なるがゆえなり。今また善導和尚の諸行を

 廃して念仏に帰せしむるゆえんは、すなわち弥陀の本願の上に、またこれ釈尊付属の行

 なればなり。ゆえに知りぬ。諸行は機にあらず、時を失えり。念仏往生は機に当たり、

 時を得たり。感応あに唐捐(むなしい)ならんや。

  まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといえども、随自の後には還

 って定散の門を閉ず。一たび開いて以後永く閉じざるは、ただ念仏の一門なり。弥陀の

 本願、釈尊の付属の意ここにあり。行者まさに知るべし。(『選択集』第十二「付属仏

 名篇)

と法然上人はこのように仰せられている。頼もしい限りである 前にふれた三重の選択の第一重に「且らく聖道門を閣いて」とあり、第二重には「且らく諸もろの雑行を抛って」とあるので、且らくの字に拘泥しかねないが、それでは法然上人の選択の義は成り立たない。選捨が暫捨であるならば浄土宗ではあり得ない。そうではなくして選択本願の念仏を信じ行じたならば、万徳所帰の名号ゆえに諸行・余行は修する必要がないのである。永捨で当然なのである。名号の中に諸行の功徳は残らずこもっているからである。

 法然上人は『選択集』第二「捨雑行帰正行篇」に善導大師の『往生礼讃』前序の「専修念仏の四得」「雑修雑行の十三失」の文を引かれた後に、

  私にいわく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨て、専を修すべし。あに百

 即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量

 せよ。

と仰せられている。迷うことはない。

 法然上人の選択の義は単なる取捨ではない。諸行を排除するのではない。「凡入報土」は選択本願の念仏以外にはかなえられないからである。余他の行を修する必要がないのは、何度もいうように念仏にすべての功徳がこもっているからである。「往生之業、念仏為先」の念仏であって、ただ善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、生まれつき(凡夫)のままにて念仏を申すのみである。

 選択の義の徹するところは『一枚起請文』にある「ただ往生極楽のためには(所求)−智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏(所帰)すべし(去行)」である。「学生骨(智者のふるまい)になりて、念仏やうしなはんずらむ」(『つねに仰せられける御詞』)の誡を思って、自他ともに念仏を相続する以外にはない。この道を歩みゆくことが、選択の義を立てて、浄土宗をお開きいただいた法然上人のご遺訓に順いたてまつることではないか。

(平成7年度 浄土宗布教・教化指針より)