前記に示された開宗にいたるまでの法然上人の心の中を、簡単明瞭に表す言葉が上人の目に飛び込んできた。それが『無量寿経』の古訳の『仏説阿弥陀三耶三仏薩楼檀過度人道経』(略称『大阿弥陀経』)願文の直前の部分である。『選択集』第三章にその説明がある。
法蔵菩薩の請いに答えて、世自在王如来が説かれた荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取した、と説かれている箇所を、同じお経で古訳の『大阿弥陀経』に照らし合わせて読まれたのであろう。すると、摂取が選択と訳されているのを見られ、「選択」の言葉こそ、仏教の中で今、法然上人の心を示すものはない、とお考えになられたことであろう。言うなれば法然上人ご一代の法門の、また、浄土宗宗義の一大キーワードである。
第三章に法然上人は「選択と摂取と、その言異なりと雖も、その意同じ。然れば不清浄の行を捨てて、清浄の行を取るなり」と説明されている。たしかに梵語の原典では同じく「取る」という意味である。摂取の方が、それに近い意味ではあるが、法然上人はあえて古訳の「選択」の方をキーワードとして採用された。漢字の選択では、選は選りすぐること、択はよしあしをよること、であって選別、選択の意味が強く、単なる採用ではない。さらに、第三章で「この中の選択とは、即ちこれ取捨の義なり」と言っておられるように、無数の国土荘厳からの採用は、選りすぐっての「選択」でなければならない。
この選択の語は、法然菩薩の極楽浄土の建立選択だけでなく、法然上人の浄土宗開宗の姿勢そのものでもあるし、この『選択集』の編集姿勢でもある。本集では、法然上人は努めてご自身の主張を独断のようにおっしゃることなく、必ず経論、先師のお言葉を先に立て引きながら、浄土宗の骨格を構築されているが、全て、法然上人の選択のお心を映している。個人の選択でなく弥陀諸仏の選択で、客観的な選択を強調されている。
『選択集』とは、「阿弥陀仏・釈尊・化仏・諸仏等の仏によって選択された、阿弥陀仏本生(前生)の、法蔵菩薩が発願された念仏の教えに関する経や論集等の文を、法然上人が、お集めになった御書物」ということになる。
『選択集』の構想からしてそうである。対象となったお経は浄土三部経であるが、本集に引用された部分は全体の数パーセントで極めて少ない。その少ない引用に、法然上人の選択の心が光っているのである。年度を追って本集の内容が説明されていくが、お経のどこが引用されるかは、まさに選択で、その意義を味わうべきである。
(平成7年度 浄土宗布教・教化指針より)