(一)選択の尺度−凡夫観

 現代は多様化と言うことが叫ばれて久しいが、我々はその渦中にあって、いやでも各種各様の選択を迫られている。しかし、本人が本人の往くべき道をいくら選択しても、その道は本人次第という場合が世間には多い。いうなれば選択も本人次第ということで、本人が基準となる。本人が選択しても、本人にふさわしくなければ、非情にも本人の志は達成されない。

 しかし、仏の教えはそうあってはならないし、そうではない。凡夫に対応して念仏の教えが仏によって選択されている。浄土宗の教えでは、万人が凡夫であって、その凡夫が念仏によって、安心の生活を送ることができ、往生の道が開かれていく。法然上人は次のように『大集月蔵経』を引かれて所信のほどを述べておられる。

  わが末法の時の中に、億々の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあ

 らじ。当今は末法、現に、これ五濁悪世なり。(第一章)

  ここをもって諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしむ。たとい、一形(一生)悪を造ると

 も、ただよく意を繋げて、専精に常によく念仏すれば、一切の所障自然に消除して、定

 んで往生を得。(第一章)

 法然上人は比叡山に学ばれて以来、ずっと、いわゆる覚りとは何か、覚りの人はいるのか、ということが念頭にあったのであろう。しかし、このお経の文句のように、未だ一人もいない、と醒めた目で眺められ、ご自身の反省も含め、模索を続けていかれたのである。伝統の仏教に対して、覚る人がいないのではないか、などと率直に批判を言い、疑問を投げかけるのは、諦法の大罪になるから、誰しも言いたがらないのである。今の時代でも、大なり小なり事情は変わらない面がある。それを法然上人は、我々凡夫の代表とし、世に公言されたのである。

  かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん。ここに我等がごときはすで

 に戒定慧の三学の器にあらず。この三学のほかに、我が心に相応する法門ありや、

 我身に堪えたる修行やあると、よろずの智者にもとめ、諸の学者に訪うらいしに、教う

 るに人もなく、しめす輩もなし。然る間なげき経蔵にいり、かなしみかなしみ、聖教に

 むかいて、手自らひらき見しに、善導和尚の観経の疏の、「一心専念弥陀名号、行往座臥

 不問時節、久近念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」という文を見てのち、我等が

 ごとくの、無智の身は偏にこの文をあおぎ、専ら、このことわりをたのみて、念々不捨

 の称名を修して、決定往生の業因に備なうべし。(『法然上人行状絵図』第六巻)

 三学の器でない凡夫であるという尺度で、それにかなう仏教の教えは何か、という選ん

だり捨てたりの遍歴の旅を重ね、選択を繰り返された窮極が、善導大師のご文を取りあ

げられての、浄土宗開宗につながったのである。

 この選択の旅の基準、尺度は、法然上人のわが身に引き当てての凡夫観である。

(平成7年度 浄土宗布教・教化指針より)