(四)念仏による永遠の「いのち」

 法然上人は『登山状』に

 「まさにいま、多生曠劫をへてむまれかたき人界にむまれて、無量劫をおくりても、あひがたき仏教にあへり、釈尊の在世にあはざることは、かなしみなりといへども、教法流布の世あふ事をえたるは是よろこびなり……ここにわれらいかなる宿縁にこたえ、いかなる善業によりてか、仏法流布の時にむまれて、生死解脱のみちを聞くことを得たる……。」云々

と言われて、煩悩、悪業によって三世に流転すべき「いのち」をもった凡夫が、いかなる宿縁かわからないが人間として生をうけ、生死の苦を解脱することのできる浄土念仏の教えを聞くことができた遇法、聞法の因縁を喜び、それを意義づけられている。このことは生老病死の四苦を背負った有限の「いのち」のものであるが、聞法仰信し、念仏することによって、阿弥陀仏の無限の大悲に懐かれるものであり、有限の「いのち」のものが、そのまま生死を超えた無限の「いのち」=無量寿に生きることである。この境地を、法然上人は

 「いけらば念仏の功つもり、しなば浄土へまいりなん、とてもかくても此の身には、思ひわづらふ事ぞなきと思ひぬれば、死生ともにわづらひなし」

と言われて、有限の「いのち」でありながら、最も恐ろしい死を超えた無限のいのちに生きる「死生ともにわずらいなし」という安堵した念仏信仰に生きる境地を示されている。この意を「摂益文」によって伺うこととする。釈尊は『観経』に

 「光明あまねく十万の世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(光明■(遍)照十万世界念仏衆生摂取不捨)

と説かれ、また阿弥陀仏は大悲をもって一切の人びとを救うべく『無量寿経』に「光明無量の願」を建てられている。それは、

 「もしわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他諸仏の国を照さざるに至らば正覚を取らじ」(設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚)

とあって阿弥陀仏は光明をもって、一切の人びとを平等に照すことを誓われ、さらに「触光柔軟の顔」には

 「もしわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りて、その身に触れんものは、身心柔軟にして人天に超過せん、もししからずんば正覚をとらじ」

(説我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類蒙我光明触其身者身心柔軟超過人天若不爾者不取正覚)

とあって、仏の光明に遇うものは身心ともに温和な人になると誓われている。光明■(遍)照の文はこの願意をうけられたものである。

 光明とは仏の大智、智恵の威大なことを表象したものである。阿弥陀仏は四智、三身、十力、四無畏等の「さとり」の智恵を得たまえる方であるから、十方世界の人びとのことを全て知りたまう、この点を「光明あまねく十方の世界を照して」と説かれるところである。この光明を身光という。しかし称名念仏するものは、称名は仏の御名を称えることであるから摂取したまう。摂取とは正しく導き擁護されることである。この光明を心光という。

 仏は称名念仏するものを心光をもって照すとは、仏の大悲心をもって衆生を教導擁護されることである。これについて善導は親縁、近縁、増上縁の三縁の生ずることを説き、また仏は「光明と名号をもって十方を摂化す」とも説かれている。

 親縁とは称名念仏で仏の御名をとなえることであるから、仏は聞きたまい、礼敬すれば見たまい、念ずれば知りたまい、憶念すれば仏も憶念したまう。仏と念仏者との間に、呼応関係が生じて親しい関係を結ぶことができる。

 近縁とは仏を見たてまつりたいと願ったならば、仏は目の前に現われたまう。しかし凡夫の肉眼では容易に見ることが出来ないが、仏は目前にましますことをいう。

 増上縁とは称名念仏すれば心の汚れが除かれて現世において多劫の生死流転の罪が消え、人生の終末が来たときには浄土に往生することができることである。

 このように称名念仏は仏の御名をとなえることであるから、仏は色光、心光といわれる智恵によって聞きたまい、見たまい、知りたまい、憶念(心に留める)したまい、目前に在しまして、擁護したまう。『選択集』にはこれについて、「弥陀観音等また来りて護念したまう」と言い、また「阿弥陀仏は二十五菩薩を遣して、行者を擁護せしむ、行住坐臥昼夜を分たず、一切時、一切処に悪鬼悪神をしてたよりを得せしめず護念したまい、延年転寿を得る」と説かれている。このように、称名念仏するものは阿弥陀仏と三縁なる関係ができて、仏の護念を頂き、常に仏とともにある人ということができる。

(平成6年度 浄土宗布教・教化指針より)