(三)六道輪廻の「いのち」

 肉体的「いのち」が有限であるに対し、仏教では六道輪廻、三世流転の説によって、流転する永遠の「いのち」を説く。

 六道輪廻の「いのち」とは地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人の六種の世界に生れかわる「いのち」をいう。この六種の世界にちょうど車輪が廻って止まらざるごとく、転生する「いのち」のことである。これは現実の人間が六道世界の一である人間界に生をうけたものであり、その人間は先天的に生、老、病、死の四苦を背負った存在である。かかる四苦の現存在は過去世の悪業によるとして、現在の苦を過去世の悪業の報いとして見る。そして、現在の人間行為が原因となって、未来は六道世界の中のいずこにか生を受けるとする。ここに説かれる「いのち」は迷い苦報の「いのち」である。即ち、これは現実の人間苦を過去の悪業の報いとし、現実の人間行為が未来の苦報の因とする考えである。しかし過去世の悪業、未来の苦報は実証できない。実証できるものは現実の生老病死の四苦のみである。実証できないから存在しないというのではなく、これは仏釈尊の言葉によって信ずべきもので、この「いのち」は三世に迷う「いのち」ということができよう。

 法然上人は『登山状』に

 「それ流浪三界のうち、いずれの界におもむきてか、釈尊の出世にあわざりし、輪廻四生のあいだいずれの生においてか如来の説法をきかざりし、 いま多生曠劫をへてむまれがたき人界に生をうけ 」云々

といわれる「いのち」がこれである。現在は有限の肉体的生命であるが、それは無限の過去より多生の流転の生を経て、人間として生れた「いのち」であるとされるものである。このことは現実の肉体的生命(いのち)は無限の過去を背負い、永遠の未来を包むものであるということである。ここに説かれる「いのち」は三世に流転する永遠の「いのち」である。さらにこの三世に流転する「いのち」について、法然上人は善導大師の考えをうけて、

 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫なり、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなしと深信す」

と説かれ、また

 「自身はこれ具足煩悩の凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出ずと信知す」

と説かれて現実の自身が、曠劫流転の悪業を背負った罪悪、煩悩具足の凡夫であり、出離解脱の縁なきものであると自省を説かれている。しかしここに言う「いのち」は煩悩、罪業によって汚された三世流転の「いのち」である

(平成6年度 浄土宗布教・教化指針より)