布教と教化−広狭二義−

 布教はまた説教、伝道、教化、説法ともいわれ、古くは唱導、勧化、法談、談義ともいわれた。釈尊が説かれた教え、およびその教えを伝えた祖師の教説を解説して、人びとを教え導き、憂い悩みのあるものに安楽を得せしめ、不信のものに信心をおこさしめて、「死」も「生」もともに憂いわづらいなき人間生活に安住せしめることである。この場合、教えを説きひろめる面より布教・説教といい、教えによって人びとを導き安楽を得せしめる面を教化という。布教は教を説きひろめる点について用いる言葉であり、教によって人びとを教育化導する点より教化という。

 本宗の全教師(住職及び非住職)は布教師であり、寺院すべて檀信徒のみならず広く民衆を教化する道場である。

 布教を広義に解するならば、「法身説法」なる語が示すごとく、寺院境内の景観、仏堂の荘厳等はすべて参詣するものをして崇敬の念をおこさしめるものであるから布教ということができる。古木が鬱蒼としげる伊勢神宮に参詣した西行法師が「なにごとのおわしますか、知らねどもただ有難さに涙こぼるる」と詠じたのは、神宮に対する崇敬の念を言ったものであろう。寺院もかくあるべきであろう。

 また、寺院の仏殿にて執行される法事、儀式は仏また先徳、先亡の遺徳の讃仰、精進仏道を祈願する行儀である。儀式は演劇に類するものであるから、執行の中心たる導師はいうまでもなく、出勤隨喜のものも、威儀作法は厳正に、法にかなった動作をして、参拝しているものをして崇敬、法悦の念を起さしめるものでなければならない。これ儀式布教ということができる。儀式終了の後、参詣者に対する挨拶、簡単な法話をすべきことは言うまでもない。

 さらに「威儀則ち仏法なり」と言われ、住職は檀信徒の信仰生活の指導者(教師)であるから日常の起居動作は規範にかない、語、黙、作々すべて法にかなって、見るものをして尊敬の念をおこさしめるばかりでなく、檀信徒等に対する個人的な談話の中にも、宗教家らしき考え、動作がなければならない。これまた布教と言えよう。

 教化事業(幼稚園、老人ホーム等)に従事するものは「自ら信じ人を教えて信ぜしむるは難が中にうたた更に難なり、大悲を伝えてあまねく化すれば真成に佛恩に報するなり」の文意を載して運営し、入園者または関係者に仏の大悲を説くことは、言うまでもなく布教である。

 次に狭義の布教とは、かつて「助説」といわれたもので、寺院住職、または教化事業者に代りて、教法を説くことで、経典・宗書に説かれる教えを比喩や説話を混えて民衆をして内容を十分に理解せしめて信仰の芽を出さしめることである。『説法式要』には自身を蓮華台上の釈尊に擬すべしと示されている。

 寺院住職は布教専門職たると否とを問わず、檀信徒を教化すべき責任者であるから、つねに自からの教養と学識を高めると共に人格の形成につとめるべきものである。

(平成6年度 浄土宗布教・教化指針より)