脳の機能が停止したことで、人間の死と判断してよいのかと言う事も問わなければならない。まず医学的な判定に対して、医療者間で必ずしも意見が纏まっていないことも問題である。しかし、何よりも死もしくは<いのち>とは何かというのは文化の問題であることを忘れてはならない。この点からの問題提起、宗教者の立場からいえば宗教的・哲学的なレベルの問い掛けが少なすぎた事がある。ここに、宗教者の役割が求められているのである。つまり人間とは何か、<いのち>とは何かという理念を明らかにする事である。
仏教の死の受け止め方は前記した『倶舎論』では命根、煖、識の三つが肉体を離れたとき、といっている。
また唯識思想では、個体のあらゆる部分はアラヤ識に支えられているから、支えられている限り生きていると考えられ、いつ離れるかは人間自身には確認が困難であるといわれる。このことは、人間をその全体性においてとらえる必要を示している。それはまた、肉体のメカニズムだけが観察の対象ではなく、意識のレベルまで掘り下げて考えなければならない問題であることが知られる。しかし、医学の現状は肉体のメカニズムをある程度まで説明できたにしても、意識の深いレベルまでの解説は今後の課題となっている。こうした階段で脳死を人の死とすることに疑問が出されているのである。
(平成5年度 浄土宗布教・教化指針より)