いのち
<いのち>は宗教のもっとも重要なテーマであった。いま、<いのち>を語ることは、これまでにまして宗教の重要な課題となっている。
脳死・臓器移植、妊娠中絶、自殺、安楽死、尊厳死、体外受精、遺伝子操作、ホスピス、エイズ問題、環境問題など現代が生み出した問題群は改めて<いのち>とは何かという、真摯な問いを宗教に向けている。この<いのち>への問いを、宗教の立場、念仏者の立場から応答することが教化者の役割である。
まず一般に<いのち>とは、どのように考えられているのだろうか。
いのちの語源は、息内、気内、生内、息路、息続、息力、生霊、息霊(日本語大辞典)などの説があげられている。その内容は�\己�の生活する原動力 �⊆拭\弧拭∪犬�ている間、生涯 �L燭寮笋┐襪海函∋爐未海函´ね0譴陵蠅漾△茲蠅匹海蹇△發辰箸眤臉擇覆發痢福惺�辞苑』)として知られている。
ここには固体に付属した肉体的・精神的な意味での生命が語られている。
他方、仏教では『倶舎論』に、寿命は命根(寿・生命力)、煖(体温・暖かさ)、識(識別作用)の三つを持続・保持しているという。この点からも生命は肉体にともなったものと理解されているともいえる。
しかし、限りある存在である人間(衆生)は永遠なるものと結びつくことによって有限性を越えてきた。このことを振り返るならば、涅槃を求めた原始仏教、無限のいのちである仏(阿弥陀仏)を見いだした大乗仏教は、人間の生命を肉体を越えた普遍性のなかに見いだしたのである。この仏と結びついた生命観を宗教的生命(永遠の生命)と呼ぶことができる。
いわば、私たちは、肉体的生命、精神的生命、宗教的生命の三種類の生命観を与えられてきたのである。肉体的生命、精神的生命を世俗的生命とみるならば、私たちは世俗的生命と宗教的生命の二種類の生命観を持っていることといえる。
現代の諸問題の解決に求めらているものは<いのち>を世俗的レベルだけでとらえるのではなく、もっと広い文脈の中で考えることである。つまり宗教的生命観に立った発言が求められているのである。
<いのち>をいかに考えるか、というときに宗教的生命とともに重要な位置を示しているものに民俗文化(民俗宗教)の受けとめ方がある。仏教的な生命観が多くの影響を与えてはいるが、伝統的な宗教意識を保持してもいる。いわば仏教と伝統的な宗教意識との習合の上に営まれている宗教文化と言う事ができる。これを民俗宗教、民俗仏教と呼んでいる。そこでの<いのち>のとらえ方の根本は、霊肉二元論である。霊は永遠であり、肉体は有限であるという見方であり、日本の先祖崇拝を一貫する主題でもある。
例えば、極楽への往生は、阿弥陀仏のみもと、まさにいのちの本源に還る事であった。しかし、それを受け止めた人々は伝統的な他界観、霊魂観に結びつけて理解してきたことを見詰め直す必要がある。具体的には民俗に見られる先祖観や通過儀礼・年中行事によって伺うことができる。
他方仏教者も自らの仏教の生命観を直接的に表現することよりも、民俗的生命観をうけいれて教化を行ってきた。こうした過程の中で、仏教的生命と民俗的生命は分ち難く結ばれ、共同体とそこに生きる人々の生命観としてゆるやかではあるが「聖なる天蓋」としての秩序を与えてきた。
しかし、都市化の流れと共に共同体は変容し、ときには消滅していった。こうした背景にあって民俗的生命観を支える母胎が衰退した現代では、新たな生命観が求められるのである。純粋な教団の立場に立った、念仏者の宗教的生命観の積極的な提示である。
ここに、いま本宗が改めて<いのち>を語る意味を見いだす事ができる。
(平成5年度 浄土宗布教・教化指針より)