(4)永遠の体験により生死の断絶を信ずる考え

  人間が生に執着し、死を恐れるのは、時間の延長に死が待っていることを知っている

  からである。したがって、時間に縛られた意識が消滅したときに開かれた境地を説く

  ものである。それは言葉を絶した自由な生死にとらわれない心境であって禅家が「坐

  上に大死一番す」といって、坐ることは死ぬこと、すべての意識をすて、捨てようと

  する意識すらもすてて、ひたすら意識の底を突き抜け、底なしの底に達しようとする

  ものである。

 以上は一般的な生と死の考えを類別したものであるが、生と死を考える場合に大切なこ

 とは「私の生(いのち)であり、私の死である」ことである。法然上人が「死生ともに

 わづらいなし」といわれた御言葉は上人自身の自証の体験を語られたものである。

  自己自身の生死観(信仰心)を持たない人は、死の淵に立ったとき、一生懸命に、「い

 のち」の存続をはかろうとするが、すべては、不可能におわり、人は孤独と絶望のなか

に淋しく逝く。

(平成5年度 浄土宗布教・教化指針より)