だれでも人命の終末(死)は必ず来るものであり、それがいつ来るかわからないのが人生である。死は人間にとって最大の恐怖であるために、考えること、口にすることを忌むのが一般である。仏教では生老病死の四苦を説くが、しかし、元来生老病死とは自然現象であり、万物変遷の「縁起」の姿である。これを四苦とするのは常住不変を願う人間の我欲我執の心(妄執)より起こるものである。
「重病人の臨床における肉身的苦痛を和らげることはできるが、精神的な苦痛は和らげることはできない」という医師の言葉を耳にする。この精神的苦痛即ち死苦は我執から来るものであり、生老病死の縁起の道理(自然現象)に対する無知より起こるものと思われる。
平常の聞法によって、人間としてこの世に生まれて来た価値を自己自身の中に見いだし、老若の別はあっても、生まれて来ただけの責務を果たしたと安堵するところに人生に対する満足感があり、ここに大往生があるのではなかろうか。それは生命の永遠性を信じ、平常念仏して仏の護念を頂く人生観(死生ともにわずらいなしという人生哲学)を心の中に持ち、第二の人生が今は亡き祖先(父母)がまします仏の浄土であることを信ずる人にのみ得られる境地ではなかろうか。また、肉身の臨終を看取る家族も、その人の生涯が価値ある人生であり、祖先のまします浄土へ生まれて行かれるのであることを信じ、浄土への誕生と思うべきである。
さらに病人の看護についても、家族のものは、期間の長・短を問わず、看護とは看病福田であり、善根を積むことであり、仏は常に見たまい知りたまうものであると信じ、看護させていただき、自己の福田を耕させていただくものと考えて、ここに生き甲斐を見いださなくてはならない。それが看病福田である。ことに老齢による身体の不調、或いは家庭等諸般の事情によって、老人ホームや病院に長期にわたって入院するについても、そこをわが家庭の延長と考え今までの労苦に思いをいたし、報恩感謝の念を忘れず、しばしば尋ねて暖い心をもって、物心両面にわたる励ましと看病をすべきであろう。そのようなあたたかい、おもいやりの心こそお念仏の信仰によって培われる心情である。
さらに脳死と判定され、または植物人間のごとき状態になった場合には、家族のものは当人に代わって浄土に在る人生を願い(往生)念仏回向すべきである。
(平成2年度 浄土宗布教・教化指針より)