(2) 現生護念によって生かされている「いのち」

 法然上人は『選択集』において、念仏するものは阿弥陀仏と深い関係ができる。といって三縁を説かれている。三縁とは親縁・近縁・増上縁である。

 これは念仏信者が仏に思いをかけて念仏するならば、念仏は阿弥陀仏の御名を称えることであるから、仏は念仏信者を見たまい、知りたまい、聞きたまい、憶念したまう(親縁)。さらに仏は目前に現れたまい(近縁)、罪障が消えて、この人生が終われば浄土に導きたまう(増上縁)。われわれの肉眼にては仏のお姿を見ることはできないが、法然上人は念仏三昧の中に観見されているのである。たとえ、われわれ人間凡夫の肉眼では見ることができなくとも、仏は目前に存します。そして念仏するものを擁護したまうのである。『阿弥陀経』に、

  「もし善男子善女人あって、この諸仏が称賛される御名前(阿弥陀仏の名号)および経の名(阿弥陀経)を聞くものは、みな一切諸仏に護念せられて、阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得る」

と説かれている。聞名・聞経のみにても仏の御守護の利益を頂くことができる。まして仏名を称えたならばなおさらのことである。法然上人は『選択集』において、念仏するものは六法諸仏の護念の利益をうけるばかりでなく、浄土の阿弥陀仏および観音・勢至等の二十五菩薩の擁護を頂くことができて、悪鬼悪神の禍や、殃(おう)難横死の災厄などにあうことなく、延年転寿を得て長生きができると説かれている。即ち仏の護念(守護)によって、安堵した日々を送らして頂き、さらに「長が生き」ができるのである。仏の護念の「おかげ」で「いのち」を永らえさして頂けることを説きあかすべきである。

(平成2年度 浄土宗布教・教化指針より)